〜プロローグ〜
古ぼけた、洋館の一角に男が一人立っていた。
上下をやや煤けた茶色のスーツで固め、暗闇の世界の中で不自然に際を立たせている。
世界は――――夜。
煤けた窓から入り込む月光と、ほのかに霞む月を背に、男は――否、魔術師は儀式をひとつ、
完成させようとしていた。
朧月の月光に溶け込むように拡がる青。不気味なまでに幻想染みたこの世界の中で、魔術師
がただ一人、現実と向き合っている。
「……足を運んだ甲斐が、あったということか」
遙々は西欧より、辺境であり魔術協会の干渉がほとんどないこの極東の島国までやってきた
男にとって、この儀式が成立することの意味は、何よりも大きく、そして何よりも深い意味を
紡ぎだす。
いずれは足を運ぶだろうと、そう思っていた。その機会が『今』となった意味もまた、ここ
に集約されてくる。
背中に担ぐ柩のような荷物を降ろし、魔術師は球体をひとつ取り出した。
それは因果を繰る魔剣。因果律を支配する神の雷。それを手に、魔術師が叫ぶ。
「告げる――――!」
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
「『聖杯』の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」
誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者。我は常世総ての悪を敷く者。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ!」
見えない力が空気を震わせ、老いた洋館の中に膨れ上がっていく。
終わったはずのものが再び始まるその瞬間。
この洋館でさえ恐らく、一度ならず二度までも同じ光景を見えることになるとは思っていな
かっただろう。本当であれば、二度とないはずだったのだから。
「……来たれ、天秤の守り手よ――!」
魔力という名の力が拡散し、集束する。
額に浮き上がる汗を拭い、魔術師は途方も無い疲労感の中、それでも膝を折らずに立ち上が
ったまま、魔力の先を見据えていた。
とてつもない魔力に、百戦錬磨の魔術師でさえ、息を飲む。
立ち込める魔力の霞の向こう側。
人より外れた神秘は、感心と殺意を同時に込めて、赤い眼を光らせた。
「たいしたもんだな、アンタ。サーヴァントを召喚したっていうのに、意識は失わねえわ、殺
気と警戒を十二分に向けてきやがるその腕は、一流として認めてやってもいい。ああ、十分だ。
アンタが、オレのマスターでいいのかい?」
霞が晴れる。
声を聞いただけでも確証はあったも同然だった。
だが、それでも魔術師は神秘を直視することで、確証を確信へと変える必要があった。確か
に、そこには実体をもって、神の御子が存在していた。確証が、確信に変わった瞬間だった。
「……初めましてだな、サーヴァント。いや……正確には、そうではないな」
魔術師の言葉にサーヴァントは、僅かに首を傾げた。この男は何を言っているのか、と。
「あ? 悪いがオレの中でアンタに会った記憶はねえよ。胸糞悪い前回の聖杯戦争の記憶はネ
チネチと残っちゃいるが――――」
「ならば、お前は俺を知っている。いや、俺の名を知っている」
その言葉でようやく、サーヴァントの顔つきが変わる。
薄れていた警戒心と殺気が、再び鎌首を持ち上げる。
前回の聖杯戦争は第五回という名目を打った儀式であった。このサーヴァントの中には自ら
を不快にするような記憶しか残ってはいない。今すぐにでも殺してやりたいやつらの名前が、
サーヴァントの頭をいくつも過ぎる。
「――――テメエ、名は?」
腰を低く落としたサーヴァントが、低く唸るような声で、問う。
魔術師は正面に立ったまま、何ひとつ臆すことなく――――――。
「俺の名は、」
語る名と語られる名に、英雄は嬉々として魔術師の横を通り抜け、肩を叩いた。それはまる
で、長年の友に会ったかのような、そんな仕草で。
「まずは現状を知るこった。アンタも知っているとは思うが、こいつは二度と起こりえないは
ずの戦争だ。ケリは過去についてやがるんだ。となれば、こいつはケリで生まれたツケかオツ
リかってところだろうな。それに……」
サーヴァントは夜空を見上げる。
サーヴァントとサーヴァントは共感するもの。少なくともこの街に、今現在で数騎のサーヴ
ァントが召喚されていることは間違いなかった。
サーヴァントが召喚されるということは、この街に再び聖杯が降りているということをも意
味する。……狂ってやがるぜ、と再び英雄はぼやくと曇った窓ガラスから夜空を垣間見る。
濁りのない満天の月夜。月は白く、白く孤高に輝いていた。清々しすぎるその月に、英雄は
顔を僅かに歪め、不吉の吉兆とも言わんばかりの表情で、月より踵を返すのだった。
聖杯復刻−MOON OF THE MOON−
冬木における聖杯戦争の終結は誰の目から見ても明らかだった。
聖杯は閉じられ、大聖杯は破壊され、200余年と続いた戦いは本当の終わりを迎えた。
終わらせた魔術師と英雄は、傷だらけになりながらも嬉々として、終結を受け入れたのだ。
それより50年という時を経る。
かつて聖杯戦争に参加した者は、自然の摂理と共にこの世界から消えてゆく。
全ては平穏の中で、勝ち得た幸福の中に自らの血を継ぎながら、その子供たちに二度とあの
ような災いが起きぬようにと願いながら。
そして50年過ぎ去りし今。その願いは儚くも夢と散る。
誰が望み、誰に望まれ、聖杯は再び冬木に舞い降りようというのだろうか。
望まれぬ災いの再降。しかしながらそれはもう、止まらない。
動き出した歯車を止めるには、あまりにも全てが遅すぎた。
紡がれし運命と英雄と魔術師と――――。
切れたはずの糸は、何者かの手により再び手繰り寄せられたのである。奇しくも選定された
魔術師は、再び聖杯戦争という名の悪夢に魅了されることを余儀なくされた。
******
麗らかな春の日差しが心地よく、縁側に腰掛ける初老の女性は桜の木を見上げながら、日差
しにその目を細める。
背中まで伸びる紫苑の髪には一切の濁りもなく、穏やかに流れ靡いている。暖かい風にそっ
と目を細める姿は優しさと慈愛に溢れる聖母のようであり、しかしながらその肩書きには、極
東における屈指の魔女としての異名が連なっていた。
欲しくてもらった称号ではないから、それは誇りになり得ない。剥奪されるならば彼女はき
っと喜んで差し出すだろう。あまりにも穏やかな外見からはまるで想像もつかない肩書きを持
ちながらにして、間桐桜はこれまでと変わらなく穏やかだった。
彼女の掲げる誇りはそのような濁ったものなどではない。
それは極めて単純で一途とさえ言える。姉である遠坂凛であり、伴侶であった衛宮士郎、そ
して共に道を歩むことを選んでくれたライダーで、今は姿の見えない家族のことを指す。
かつての悲劇とそこから生まれた喜びから50年。
たくさんの誇りを目指しながら、護りながら、齢を重ねてきた極東の魔女は、感慨深げに庭
の桜木を見上げる。
「姉さんが亡くなって、もう4年が経ったんですね」
ふと桜の呟いた言葉に、隣に立つもう一人の女性が「そうですね」と相槌を打つ。
すらりと伸びた長身と、足元まで流れる紫髪が彼女の美貌を際立たせていた。
風に揺れる髪をそっと払い、かつての『昔』から姿の変わらぬライダーは、遠くを見つめな
がらメガネの奥の瞳を僅かに細めた。
「……時を経るというのは早いものです。だが、サクラ。私は未だ、協会の通達に納得したわ
けではありません」
風が吹いて桜が舞い散る。
一瞬だけ動揺した心のように。吹いた風は数瞬で止むと、再び穏やかな景色を描き出す。
「ライダー。貴女はまだ、姉さんが生きていると思いますか?」
傍らに立つライダーは、複雑な表情を浮かべ、答えるべき回答を模索する。
遠坂凛の死。
それは魔術協会からの通達により、間桐桜の元へともたらされる。
連絡を受けた直後、桜とライダーは倫敦へと立つも、結局遠坂凛にまで辿り着くことはでき
ないまま、本国への帰国を余儀なくされた。
何者かに邪魔をされたわけでもなければ、所在を突き止めることができなかったわけでもな
い。
すべては魔術協会という、組織の方針に尽きる。
遠坂凛は倫敦でその生涯を終えている。協会の中で確固たる地位にまで上り詰め、魔法に近
づいた魔術師として名を馳せたことは、ここ数十年の間で多くの魔術師の風聞の種とされてい
たことだ。間桐桜にとってはかけがえのない姉であり、誇るべき存在。
宝石の魔法使い、『ゼルレッチを追う者』。
聖杯戦争より15年後、遠坂の伝承でもある宝石剣の複製に見事成功した凛は、協会内にお
ける地盤を確立する。聖杯戦争の生き残りということで注目されていた彼女だからこそ、その
成功はあらゆる魔術師の目に止まり、絶大な評価と支持を得ることとなった。
遠坂凛はここぞとばかりに、その状況をふんだんに利用してみせ、自らの研究室(ラボ)を
協会内で得るに至る。また、彼女も一度の大成に甘んじることもなく、並行世界への干渉も同
時に開始する。遠坂凛は魔法使いゼルレッチ同様に、並行世界へ旅立とうとさえしたのである。
しばらくは日本に滞在する期間もあり、姉と妹はその絆をより深め、再会をまた誓う。
遠坂凛が倫敦へと戻りその2年後、とある魔術の行使を強行したのだと聞いた。
魔法の模倣であるのか、それともオリジナルの魔術によるものなのか、研究室で極秘裏に行
使された魔術が数多くの議論や推測を呼び起こし、同時に一人の魔術師が世界より弾き出され
た。成功であったのか失敗であったのか、その事実は未だ定かではない。
ただそこに残されたのは、二度と目を開くことのない遠坂凛その人だけだったのだという。
消えた心と残った肉体。
原因の詳細等も一切明かされることなく、魔術協会はソレを死として扱い、間桐桜へと通達
したのである。
処置は異常な程迅速で、あまりにも速すぎた。間桐桜とライダーが凛と対面する暇もないま
ま、魔術協会は遠坂凛の遺体を秘匿扱いとしたのである。
当然と言えば当然だった。
魔術協会にとって遠坂凛は、秘蹟の塊なのだ。魔術師の培った魔術の集大成を、外部に漏ら
すはずも当然なく。遺体と魔術は、協会に帰属する。それを理由に実妹の干渉さえ、協会はそ
の一切を拒み、結局桜とライダーは真実に辿り着くことができなかった。
だからこそ、本当にそれを死と呼んでいいのか、未だ疑問に持つ己がいることも、桜は認め
ている。心の中、未だ姉の死を認めてはいない自分がいることもまた、然りである。
回答を出しかねているライダーに桜は微笑み、ライダーは「すみません」となぜか謝るのだ
った。
月日が過ぎ去るのは早い。
間桐桜にとって、この50年という年月は、姉だけではなく最愛の人さえ、この世界より消
していた。その名は……。
――――衛宮士郎。彼もまた、既にこの世界にはいない。
聖杯戦争終結後、5年は生活を共にし、桜も士郎も幸せの絶頂であったのは間違いなかった。
結婚と出産と、恋人として、夫婦として、幸せな生活を送っていたのは誰の目から見ても明
らかであり、言うまでもなく。これからもずっと、そんな生活が続いていくのだと、信じて止
まなかった自分がいたと、桜はそんな昔のことも思い出す。
ただ、それが叶うこともまたなかったのである。
とある日を境に、突然として衛宮士郎はその姿を眩ませ桜の前から消えたのだった。
彼の背中を辿る物は何ひとつ残されてはおらず、あらゆる手段と方法で捜索を行ったものの、
結局成果は上がらなかった。
開口一番「あのバカ――!」と声を荒げたのは、姉に連絡した時であったか。
風の噂にていつの日にか聞こゆ。
赤い外套の魔術師がアジアより世界を巡っていたのだと。
全ては間桐桜の分からぬところで、嘘なのか本当なのかもわからないまま、時間だけが過ぎ
去っていったのだ。
ふと、桜が視線を戻すと、ライダーが玄関に向かうところだった。
「どうかしましたか?」
「来客のようです。少し待っていて下さい」
簡素に答えるライダーを見送り、桜は青空を見上げる。
澄み切った青空に和やかな風。庭の景色もまた、青空や風のようにこれまでと変わらない。
姉さんや士郎さんが帰ってきて、ここだけは何も変わらない場所で在り続けているのだと、
胸を張っておかえりなさいと、言うことが出来ればなんて、桜は思いながらに目を瞑る。
桜自身、今が不幸だとは思わない。
それでも、もっと幸せな未来を夢見てはいけなかったのだろうかと、未だに思うこともある
のだ。
自分へと寄ってくる二つの足音に、瞑っていた目を開き、今の自分が決して不幸ではない証
のひとつに、桜は微笑んだ。
「こんにちは、桜さん」
「眞姫ちゃん、いらっしゃい」
優しく微笑んで迎えて、懐かしい姉の面影を存分に残す少女を見つめる。
穂群原学園の制服に、赤いコートを着込む姿はまさに過去の姉の姿そのものである。
言動も凛さながらに強気と勝気が目立つ。
もっとも、それを剥き出しにして表に現すことはほとんどない。容姿端麗、成績優秀、文武
両道の道を真っ直ぐ前進中である。
かつての遠坂凛と違う点があるとすれば、と桜が瞳に映すのは、端整な顔立ちの奥に揺れる
黒髪だろうか。肩の辺りで少しだけ短めに切りそろえられている髪は、性格さながら彼女をよ
り活発的な印象に仕立て上げていた。
遠坂凛の孫にして彼女を師として仰いだ魔術師。間桐と共に冬木の街を管轄する管理者とし
ての素顔を持つ少女。それが遠坂眞姫である。
「今日は愛美と一緒ではないのですか?」
普段ならば遠坂眞姫と一緒であるはずの片割れがいないことに、ライダーが首を傾げた。
「うん、ちょっと。ホームルームが始まる前に、先行しちゃいまして」
そう、思えば学生達が下校して家路に着くには、少しだけ早い時間であることに気付く。
彼女は早々に学校を切り上げ、それよりも別の何かを優先させた、そういうことだ。
「……屋敷の方で何かあったのですか?」
「干渉があったので、ちょっと気になっちゃいまして。犬や猫かな、って思うほどの小さなも
のだったから、気にするほどでもないはずだったんですけど……」
野生動物や近所の人間が屋敷に近づくことで起こる干渉は、珍しくもないいつでも有り得る
出来事である。大抵は無害であることを感じ取り、早急な対応はとらない。間桐桜にも、そん
な経験は多々ある。
「魔術師、ですか?」
ライダーが僅かに声を冷たくし、眼鏡の奥の瞳を細めた。
要は家主が、干渉したものが有害であると判断した、ということに直結する。となれば、自
然と干渉相手は限られてくるというものだ。
「いえ、そういうわけではなかったんです……なかったんですけど、ちょっと何とも言えなく
て。ううん、どう判断していいか、わからなかった、というのが正しいのかもしれません」
普段の快活な彼女からは想像のつかない歯切れの悪さ。
敏感に反応したのは遠坂眞姫も存分に慕うライダーだった。
「何があったのですか」
僅かに表情が曇った瞬間もライダーは見逃さない。ずいっと恐ろしい速度で、間合いを詰め
る。
「ちょっと……ライダーさん! 近いです! 近いです!」
「これは失礼しました」
すっとライダーは一歩後ろに下がり、解放された眞姫は、はぁっと深呼吸をする。
いくら女同士であるとは言え、ライダー程の美人に額と額とがくっついてしまうんじゃない
かって程に接近されては、さすがの遠坂眞姫とて緊張のひとつもする。
眞姫はもう一度だけ心を落ち着かせようと深呼吸をして、ふと気付いた。
そもそもそれは最初から叶わない。
遠坂眞姫の動揺する理由は、最初からそれではないことに。
ここに急いで来た理由。間桐桜とライダーに一刻も早く会わなければならなかった理由を、
その手で握り締める。
「あの、これを……」
眞姫が差し出したのは一枚の古ぼけた紙。
羊皮紙の端々は日に焼けたように茶色く煤けている。見るからに褪せきった紙には何が書か
れているのかと、ライダーが受け取り、一枚の紙と対峙した。
紙面には、ただの一行。
左から右へ流れるライダーの瞳がとある一瞬、揺らぐ。右端へ辿り着いた時にはそれが自然
の衝動だったのだろう。目を見開いたライダーの姿に、眞姫は僅かに俯いて、桜は静かに願い
の言葉を口にした。
「ライダー、読み上げて下さい」
その言葉が重かった。
何よりも、何よりも重かった。
これを読み上げてしまうことは、これまで築き上げてきたものを、一気に押し潰してしまえ
るくらいの内容なのだと思えばこそ。
桜とライダーの視線が真っ直ぐに見つめあう。どちらも逸らさないまま、僅かな時間でこそ
あったが、やがてライダーの目が覚悟と共にすっと細まった。
「ありがとう」
何に対して間桐桜がお礼を言ったのかは、わからなかった。
桜の言葉をきちんと聞き届け、ライダーは手紙の内容そのままに、宣告する。
「……聖杯は再び目覚める。選ばれし魔術師よ。その望み、今一度叶える刻……」
間桐桜が、静かに目を瞑った。
小さな緊張と微かな動揺。
この言葉を、あの時より、自分達が断ち切ったあの日から、耳にすることはもう、二度とな
いと思っていたのだから。
重苦しい空気、沈黙する二人を前に、眞姫が「あの……!」と口火を切る。
この手紙が意味するものは何も、聖杯が再降したという信じがたい事実だけではないのだと。
聖杯を求め、追従するのは果たして何なのか。
それはあまりにも単純にして明解。
「この手紙は封書でした。ご丁寧に、封筒にはきちんと宛名が記されていました。選ばれし魔
術師へと宛てる、と。宛名は――――」
しん……、と重苦しい空気と共に静まり返る二人の瞳を、見据えながらに遠坂凛の面影を確
かに映し出す魔術師は、己の名を告げる。当然だ。聖杯があるところに魔術師は必然。ともす
れば、そこには英雄の姿さえ、垣間見えるのかもしれない。
「――宛名はわたし、遠坂眞姫です」
******
穂群原学園の制服を着た少女が快活に、他の生徒や通行人の間をするりするりと、駆けてい
く。冬と名のつくこの街も、暖かい陽光に包まれ始める季節、春。
何かが終わり、新しい何かが始まるそんな季節に、声をあげる少女は青になった信号をせっ
せと渡る。
「もうー! 眞姫ちゃんったらー!」
帰路につきながらブーブーと文句を零す少女が交差点を抜ける。すれ違う人達は首を傾げた
り、苦笑しながら、そんな彼女の横を通り抜けていく。
周りを気にする様子はないまま、まったく、と彼女――間桐愛美――は、終業のホームルー
ム時点で姿を消した親友の後を、こうして追いかけていた。
時間はざっと30分くらい前まで遡る。
しかしながら珍しいこともあるものだと、愛美は感心さながら思案した。
姿を消した少女は遠坂眞姫。間桐愛美の幼馴染であり、無二の親友でもある。
成績優秀、品行方正。
あらゆる面で周りの注目を集める少女はしかし、決して目立つ行動はせず、望まないことを
愛美は知っていた。だからこそ、今日の眞姫の行動に愛美は疑問を持った。不用意に目立つこ
とを嫌う彼女がまして、教師に目をつけられるような行動に出るなど、これまで見たことも聞
いたこともなかったのだから尚更である。
そんな彼女が理由も告げずに学校を早退してしまうなど、他の生徒や教師の誰もが想像でき
るわけがなかった。珍しいものをみた、という表情をしている周囲をよそに、愛美は一人黙々
と教室の掃除をするのだった。
恨めしい思いが募るのは、今日が掃除当番だったということもある。
ただ、それだけではない。
愛美自身、彼女のそういった行動に経験が一度もないわけではなかったからだ。だからこそ、
知っている。彼女が何も言わないということを。
一緒に遊んだり勉強したりする最中に、急にいなくなったりすることは、これまでもままあ
ったことだった。結局、行き先はそのほとんどが自宅であり、辿り着いてみれば、彼女は書物
や宝石を握り締めていた。
つまるところ、そういう突飛な行動の起因は彼女が魔術師としての本質を見せる時だけ、と
いうことになる。
間桐愛美は知っている。
何も言わない理由を知っている。
遠坂の当主であり、倫敦にさえ影響力を持ち得る魔術師。
それが遠坂眞姫という少女の本当の姿であるということを。
「なにか……あったのかな」
ぽつりと呟き、愛美は空を見上げる。
雲ひとつない空。眩く晴天。高く昇った太陽がやけに、愛美には不自然に映った。
嫌な予感、とでも言えばいいのか。
論理で説くことのできない、感覚的な何か。
ざわりと、言葉とは裏腹な濁った春風が木々を一度だけ翻弄し、世界は再び穏やかな姿を取
り戻す。きょろきょろと回りを見ても、特に変わったところは見当たらなかった。
気のせいか、と見習い魔術師もまた、背中まで流れる淡いスミレ色の髪を揺らしながら、せ
っせと我が家を目指すのだった。
******
「眞姫が、選定された魔術師……!? そんな、馬鹿な……」
自らの名を告げた眞姫に、ライダーはあからさまに落胆の色を覗かせる。
ライダーの想いはただひとつだけなのだ。
その思いが、彼女には珍しいくらい露骨に表情へ現れた。
通らなくていい道を、通る必要などない。壊したはずの道が、不恰好に舗装されたのだとし
ても、崖が待っていると知れるなら行く必要はない。その道を舗装したのは悪魔か、それとも
別の何かであるのか、そんなものは関係なかった。なぜならば、それは先代の参加者が二度と
通ることがないようにと、完膚なきまでに叩き壊したはずなのだから。
間桐桜とライダーは互いの顔を見ながらに、きっと同じ事を思うのだろうと確認しあう。
聖杯戦争を、負の側面より体験した2人であるからこそ、同じなのだ。
あんなものに、もう誰も参加などさせたくはない。それが、身内であるならば尚更だった。
願ってきたことと叶えてきたこと、それが今、脆くも崩れ去ろうとしている。
「……嘘か真実か。それはきっと近いうちに、聖杯によって証明されることです。だからこそ、
待ちに回ってしまってはいけないとも、思うんです。誰が、何のために、うちにこの手紙を投
函したのかは、わかりません。それでも、意味がないとは思えない……!」
ゆえに、聖杯とは何なのか。
聖杯戦争とは何なのか、それを知る必要があると、眞姫は主張する。
「……わかりました。サクラ、私から彼女へすべてを話しましょう」
堰を、ライダーが切る。
決して勧めるべく意味合いではないにしても、ともすればいずれは話さなければならなかっ
たのかもしれないと、今に思う。
聖杯戦争と、過去。
間桐桜とライダーと、そして眞姫の師であり祖母であった遠坂凛の通過点であった戦いを。
「帰ってきましたね」
気配を感じ取った桜が小さく呟き、ばたばたと一人の少女が皆の集まる居室に足を踏み入れ
た。「ただいまー……あれ……?」と、いつもとは違う雰囲気に、家主の一人であるはずの間
桐愛美が部屋を間違えたのかと言わんばかりの表情で立ち竦んだ。
「お帰りなさい、愛美」
「お邪魔してるわよ」
立ち竦む愛美に、今までの雰囲気より少し和らいだ表情で、ライダーと眞姫が迎える。
きょとんと、小さく頷いただけの愛美は、雰囲気のままその場に腰を下ろした。
何が何なのかさっぱりわからない愛美に、ライダーが微笑んで、
「ちょうどいい機会です。愛美にも、聞いて――――」
「ちょっと、待ってください」
再び割り入る少女の声は、これまでで一番はっきりと澄んだ声だった。
「桜さん、ライダーさん。この手紙は、決して愛美にとっても無関係ではないんです」
自分の名前を呼ばれたことに「へ?」と指差す愛美と、まさかと言わんばかりの表情で見つ
めるライダーと。
四つ折りにされた封筒を取り出す眞姫は、そのままそれを広げる。
「えらばれし魔術師にあてる……? 遠坂眞姫、間桐、愛美……? ……え、私!?」
広げられた封筒に書かれていた文字を愛美がそのままに読み上げ、驚きの声で締め括る。
封筒の宛名には二人の名前が記されていた。
詰まるところ、先の手紙の宛名は眞姫一人に宛てられたものではないということ。聖杯に選
定されたのは何も、眞姫だけではないということだった。
「……この手紙はわたしだけに宛てられたものではない、ということです。愛美にも聞いても
らうのであれば、覚悟をして聞いて欲しかった。先に帰っちゃってごめんね、愛美」
最後はいつもの調子で、眞姫は愛美に向き直った。
何が重要で、何がふざけていて、本当に大切なことと、そうでないことと。
間桐愛美という少女は、それらを決して間違うような少女ではない、それはこの場にいる誰
もが知っていて理解していた。
ただ、理解することと状況を把握することはまったくの別物である。どれだけ大切な話をし
ていようとも、自分の立場が分からなければ、その意味はなくなってしまう。
ライダーは愛美と眞姫を自らの正面に座らせて、桜と一度だけ目を合わせて、静かに語り始
める。
「愛美も、順を追ってきちんと説明しますから、聞いておいて下さい。この手紙が偽りである
ことを、私は何よりも強く望みます。ですが、この手紙が本当であった時のために、話してお
かなくてはならない。桜と私と、そして凛が自ら戦場に立った過去の話。50年前、この街で
起きた聖杯戦争について――――」
******
気付けば昇っていた太陽も、真っ赤に辺りを染め上げながら、沈もうとしていた。
衛宮邸の縁側に立つ二人は、ただその景色を見つめていた。
遠坂眞姫は自宅の洋館へ早々と帰し、間桐愛美は今頃自室で眠っている頃だろう。
もうすぐ夜だ。
日が沈んでからは、いつの日も人為らざる者の世界へと変貌を遂げる。桜とライダーは並ん
で立ったまま、その世界を受け入れる。
「もし聖杯が復活しているのなら、わたしも同じ道を歩みたい。桜さんやライダーさん、そし
て、おばあさまと、自分自身のためにも……!」
「私はまだ全然見習いで……どこまでできるかはわからないけど。でも……! 聖杯がおばあ
ちゃんやライダーさんをまた苦しめるのなら、私も眞姫ちゃんと一緒に戦ってみせる。聖杯を、
壊すよ……!」
二人が思い浮かべるのは、ライダーが話を終えた後のほんの一幕だ。
眞姫はやはり、凛の血を継ぐものであると改めて思い知らされて、愛美の中にも桜が息づい
ているのだと、しみじみとライダーは思った。ぐっと拳を握り締めて気合を入れるその姿とい
ったら、おかしくてライダーの口許も緩んでしまいそうだった。
「サクラ、よかったですね」
「ええ。本当に私たちの知らない間に、あの子達は大きくなっていたんですね」
「時間とは残酷でありながら、堪えがたい喜びも与えてくれる。たとえ、聖杯戦争が起きてし
まったとしても、士郎のような正義が二人の中には息づいているのですから」
だからこそ。その灯りは何よりも、絶えがたく燈っていて欲しい。こんなところで、消して
しまわないように。
「ライダー。もし、聖杯戦争が起きてしまったら、愛美ちゃんや眞姫さんの力になってあげて
ください。どうか、お願いします」
「今更ですよ、サクラ。私も想いは貴女と一緒です。サクラと士郎そして凛、その家族を壊す
者を私は許さない」
間桐桜が、その言葉に微笑む。
ライダーも、共に微笑んだ。
思い返し、あの手紙は偽りではないのだろうと、そんな予感が充足する。
聖杯戦争は起こるだろう、と。
桜とライダーだからこそわかる、そんな予感めいたものがそこにはあった。かつてアンリマ
ユをその身に宿した魔術師は、ゆっくりと目を瞑る。
何が目的で聖杯が復活するのかはわからない。それでも、この由々しき事態を見過ごすわけ
には、行くはずもない。かつて聖杯の真実を知った、遠坂凛と衛宮士郎のように。
「頼りにしていますよ、ライダー」
日が沈み、訪れるは夜。
迎え撃たねばならぬ魔術師とサーヴァントへと。
確かに今、ここで。
規格より外れた一組の魔術師と英雄が、宣戦布告を行い、幕は静かに上がろうとしていた。
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あとがき1。
まずはここまで読んで下さった皆様、ありがとうございます。
読みにくいのは重々承知はしておりますが、ご了承下さい、力不足です。
しかしながらようやくです、ようやく。進み始めました!
仕事の激務にたたらを踏みながら、しかし!
その環境からもようやく解放されました!(注※仕事辞めたとかじゃないです)
後はただ突っ走るのみ。なぁ、士郎!
さて、今回のプロローグはこれまで掲載していた弟1話を踏襲した形になります。
刻まれている年が若干以前と違ったり、気付いた方もおられるかもしれません。
帳尻合わせてますので、かとなくスルー頂けると助かりますorz
それと共に、冒頭からもう一人の魔術師にも焦点を当て、追記しています。
改めて振り返ってみると、この人もなんだかんだで重要なわけでして。
いつかの日の見せ場まで……ということでちょくちょく出てきます。
再編チックですが、かなり増量してますので、以前に読んで頂いた方も今後、
読んでいって欲しいなぁ、なんて思ったり。
そして本物語の主人公である遠坂と間桐の孫ヒロインズ。
第五回聖杯戦争を戦い抜いた間桐桜とライダー。
また、プロローグでは一言たりとも関係記述のないもう1人の主人公。
そんな第六回聖杯戦争を戦い抜こうとする人たちへ。
スポットライトをあてていきます。
聖杯は果たして何のために復活したのか。
聖杯を目指す者と壊す者との道はいかに。
次話は1/12更新します。
終わりまで、読んで頂ける方はどうぞお付合い頂けます様。